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映画に埋もれて窒息したい

それでも人生は美しい

映画『無垢の祈り』ー現実である絶望しかない世界

渋谷アップリンクにて上映されている

平山夢明の小説を原作とした映画作品

『無垢の祈り』

http://www.webdice.jp/dice/detail/5264/

 

観終わった後、座席から動くことができないという経験は初めてだった。

 

そして、確信した。

例で上げるなら、昨今の過労自殺のニュースで「自己責任だ」「転職すれば良かったのに」「なんで逃げなかったの」という意見を浮かべる人は、観ない方が良い。

解らない人には、絶対に解らない。

絶望を知らない人間には、この映画が何を伝えんとしているか、解らないのだ。

 

※この記事はネタバレを含みます。

 

 

暴力、性的虐待、いじめ、味方の誰ひとりいない世界。希望など存在しない世界。

逃げたい、どこかに行きたい、でも何処へ?ひとりで?どうやって?

どこにも逃げられない、誰も助けてくれない。何処へいても地獄だ。

自分の生活範囲全てが監獄なのだ。

そして、それは現実なのだ。

  

この作品が、万人受けするエンターテイメントであるか、というとそれはNOだ。

視聴者を選んでしまう作品、という時点でこの作品は映画たるべき存在意義を失っている。

しかし、この映画は自主制作。伝えたいことを伝えるために、自慰行為に近い形で作られたと言っても過言ではないだろう。

私は、この作品は素晴らしいと思う。臭いものに蓋をして、現実を描写せず、安っぽいヒューマニズムと綺麗な世界をちんたら描くエンタメ映画よりも、現実を映そうとしているこの作品は、私は映画は本来こうあって欲しいと願う。

世の中の多くの人は、残酷なもの、醜悪なもの、レイプや幼児の性的虐待、外見が変わるほどの家庭内暴力、存在の否定、セックスと暴力にまみれた絶望の世界から目を背ける。または、興味本位に、ギラギラした好奇な眼差しで、それらを犯す。

それが隣で現実に起こっていたとしても、リアリティを感じない人々。それが世間だ。

だから、こういう現実を忠実に描いた作品はなかなか日の目を見ない。

嘆かわしいことだ。事実よりも、安い解釈で絶望というものが切り売りされるのは。

 

映画に話を戻す。

フミが生きたとしよう。

そこは絶望しかない世界。施設に入って、一時は安らぎの時を得られるかもしれない。

だが、それも束の間。すぐに彼女をトラウマが襲い、フラッシュバックの日々。PTSDに悩まされ、学校で馴染むことも、仕事に就くこともままならない。

死ぬまで続くのだ、地獄は。

生きることを我々は、絶望と呼ぶ。

 

フミはそれを知っていた。

だから、殺人鬼に「殺して下さい」と懇願したのだ。

何故殺人鬼なのか。それは、彼ならば自分の「死」に意味を持たせてくれるという無二の「希望」を抱いたからだ。

 

涙が止まらなかった。

フミの嗚咽と連動するように、私も嗚咽した。

ああ、私がいたのはあの世界だったのだ。

だがもう私はあそこにはいない。

私は、渋谷のアップリンクという小さな映画館で、この映画を娯楽として観に来るお客になることができた、幸運な人間だ。

それがわかり、安堵し、また泣いた。

 

これは、観る人によっては人生の鏡のような作品だ。

私は、偽りの喜怒哀楽、嘘くさいハッピーエンド、隠されたリアリティを、演出などによって上手く料理して提供するような映画よりも

このような、不味い飯をギリギリ食べられるテイストで、食べた後も腹を下しそうな、そんな映画こそ人生を豊かにしてくれる映画だと信じてやまない。

 

最後に、この『無垢の祈り』は

素晴らしい、愛おしい映画です。

 

【考察】『セッション』-音楽による殴り合い-

『セッション』はトレーラーの段階では、わざわざ劇場で観ずともDVDで事足りるかと思い、映画館で観るつもりはなかったのだが、

何度も上映期間が延長され、口コミでの評価が珍しく高かったので、これは早く観に行かなければと思い、本日やっと観る事ができた。
 
 
そして、私の期待は裏切られなかった。
音楽が題材なだけあり、劇場で見て良かったと思う。
自宅のAV機器ではあのドラムの音の違いは明確にわからないのではなかろうか。
 
 
以下、ネタバレを含むため、読む方にはご注意願いたい。
 
 
 
 
■現代における新しいスポ根の形
前半部は、冴えない感じの学生ドラマー・アンドリューが、鬼教授フィッチャーの目に留まり、師弟関係を築いていく様子が描かれており、よくあるスポ根モノのサクセスストーリーよろしくな展開で話が進んでいく。
アンドリューのドラムの音も、序盤と終盤では明らかに上達していることが、素人耳にもわかるようになっている。
鬼畜なスパルタ先生に叩き込まれるがまま、文字通り血と汗の滲む努力をする主人公を、観客が見守るような形である。
ここまでは定番中の定番で、はいはいまたこのパターンね、という心持で観られる。
 
しかし、フィッチャーの教え子が死に、アンドリューがコンテスト直前に犯したヘマが原因で主奏者を降ろされたところから、徐々に作品の本質が垣間見えるようになる。
退学したアンドリューが、大学を辞めさせられたフィッチャーと再会し、その胸の内が明かされる。
フィッチャーが語る理想は、もっともらしいが、現代においてはあまりにひとりよがりだ。
また、アンドリューも諦めきれない夢を再び追うため、フィッチャーのバンドに入る。フィッチャーを大学から追い出すことになったのは自分のせいでもあるのに、である。こちらもやはり自分勝手である。
 
成功者になりたいアンドリューも、
成功者を育てたいフィッチャーも、
エゴの塊なのだ。
二人のやり方は、現代の風潮とは掛け離れ、古風を通り越して滑稽に見せられている。
偉大なドラマーになるため、勝手に一人でで色々考えた結果、一方的に彼女を振ったアンドリュー。
素晴らしい奏者に育てたいが為に、異常な程のスパルタ教育を施した末、生徒を自殺に追いやってしまったフィッチャー。
二人とも、何ひとつ反省はしている様子はない。
それは自分たちが正しいと思っているからだというのが、バーでの再会のシーンで窺える。
 
しかし、2人の語る理想は最もである。
限界を超えられる者しか、成功者にはなれない。
自分の力量を自分で測ってしまう者も、相手の限界を勝手に決めてしまう者も、成功者にはなり得ない。
その理論は正しい。
 
しかし、現代において「限界を超える」というのはブラックな思想とされている。勿論、その理論も正しい。
 
滑稽さと正しさのパラドックスが、この作品には込められている。
 
 
■音楽という武器を使った殴り合い
この作品は、なんといってもラストシーンが一番の魅力である。
自分を大学から追い出したアンドリューに対して、セトリを変更することで演奏不能にして報復したフィッチャー。
その報復によりステージを降りたと思いきや、再びステージに戻って勝手な曲目を演奏し始めるアンドリュー。
つまり、やられたらやり返す、目には目を、ということだろうが、2人は殴り合いに等しい行為をステージ上で繰り広げる。
本番中に一体この2人は何をやっているのか。フェスの観客も、映画の観客も、そっちのけである。
あの2人は「良い演奏」をしようとしているわけではなく、意地、プライドの張り合いをしていたということが、ここでわかる。
アンドリューとフィッチャーが目指しているのは「最高の演奏」なんて高尚なものではない。
「偉大な自分」という身勝手な理想が彼らの夢であり、目指すところだったのである。
 
そんな風に観客を置いてけぼりで殴り合いを続ける2人。
しかし、殴り合いを通して2人は互いが似ていることに気づいていく。
アンドリューとフィッチャー、目的は同じ者同士、互いを理解し、認め合ったところで物語はフィニッシュする。
 
2人がその後成功したのか否かはこの映画上では描かれておらず、しなしながらそれこそがこの作品の本質を表しているのであろう。
この物語はサクセスストーリーではない。
エゴを他人に押し付ける、ないし自分の価値観を押し付けることの醜さ、滑稽さ、がこの映画の本質であり、
また、成功者への道は滑稽で身勝手で、幾多の矛盾を孕んだものであるという風な解釈を可能にしている。
 
 
 
 
 
私は基本的にはスポーツ根性モノは嫌いである。
綺麗事ばかり映し、勝者は正しいかのように描かれることが多いからだ。裏返せば、敗者は努力が足りないから敗者なのだ、ということだ。多角的視点を排他し、極端な価値観を押し付けてくる作品は、観てもほとんど刺激を受けられない。
そういう意味では、いくつかの戦争モノやアクションモノも苦手なのだが、話が逸れてしまう上に好みの問題でもあるので、それは置いておく。
 
 
要するに、過去のスポ根モノによくある
根性で頑張って成功!努力こそ正義!成功者は正義!
という押し付けがましい作品とは違い、この「セッション」という作品は、成功者が「悪」である可能性を提示している。
また同時に、努力と根性をいくら発揮したところで、成功者にはなり得ない可能性も提示しているのである。
 
この映画は、強いメッセージを持って描かれているが、結論は観た人に任せるという点で、非常に優れた作品であることは言うに足りない。
 
派手さはなく、地味な場所が続く割には、2時間退屈させることなく最後まで観せてくる点も素晴らしい。
 
 
これまでの価値観を根底から覆してくれるような、とても満足度の高い映画だった。
今後もこんな良い作品に出会いながら生きていきたいので、努力を惜しまず労働して映画館に足を運ぶお金と時間を作ろうと思う。
 

ロビン・ウィリアムズ氏を偲んで

今朝いつものように電車に乗って、いつものようにニュースサイトを開くと、まず目に飛び込んできたのがこの記事だった

 
 
アンドリューNDR114」「レナードの朝」「ジュマンジ」「フック」「ミセス・ダウト」「パッチ・アダムス」「ジャック」「フラバー」「トイズ」「グッド・ウィル・ハンティング」…
彼の出演する名作は挙げるとキリがない。
そのほとんどが主演であることもまた驚きであり、彼がいかに一世を風靡した素晴らしい役者であったかを示している。
 
私が彼の主演作の中でもとりわけ好きで、何十回も観ているのが
他の作品も何度も繰り返し見ているけれども、この作品だけは特別だ。
「自由」とはなんなのか、人はなぜ「死」ぬのか、多くのことを考えさせてくれる作品であり、私が映画というものについて考察するきっかけになった。
 
ロビンの演じる役の多くはお茶目で、コミカルで、しかし真面目で、どこか物悲しく、笑顔は切なく、物語の深みを増して伝えていたのが印象に残っている。
彼の言葉は一見淡々としているような口調でありながら、聞き取りやすい英語は胸にまっすぐに突き刺さった。
 
近年での有名な出演作品は「ナイト ミュージアム」だろう。
ルーズベルト大統領の彫刻役のロビンは、飄々としていてお茶目な、いわゆるロビンが得意とする役どころで、
これからはそういった超自我的な役どころで活躍をしていくのかなー
と期待していた矢先の訃報であった。
 
今思い返しても、ロビンの出演作は「何度も観たい」映画が多かったように思う。
それだけ、作品の中での彼の存在感があり、伝わってくるものも多かったのだろう。
彼の遺した名作たちは、これからも多くの人に観られ、きっと観る人に笑顔と切なさをもたらしてくれる。
 
 
私が愛して止まない作品たち。
そんな作品を届けてくれて、残してくれて本当にありがとう。 
天国でまたいつか、彼の新しい作品と出会うのを楽しみに、
私は今日もあなたの映画を観ています。
 
May your soul rest in peace.
 

【これから観る人へ】『STAND BY ME ドラえもん』-そこに、居たドラえもん-【感想】

今日、仕事が終わってから観に行った映画の話をします。

 
STAND BY ME ドラえもん
 
 
シリーズ初の3DCG映画で、
監督に『ALWAYS三丁目の夕日』の山崎貴、『もののけ島のナキ』の八木竜一を立て、同じくナキの制作スタジオ・白組が制作を手がけています。
広告PRも、これまでの劇場版ドラえもんシリーズ上最大規模で派手に行われています。
 
私は、藤子・F・不二雄先生の短編を含む数々の作品に多大な影響を受け、自己を形成してきました。
中でも『ドラえもん』だけは特別で、大人になった今でも毎年欠かさず劇場に足を運び、マンガを読み返し、テレビアニメも度々鑑賞を続けています。
そのドラえもんが、3DCGという新しいエンターテイメントで蘇る…!
 
こんなに嬉しく、何かの映画を待ち遠しいと思ったことは久しくありませんでした。
 
 
そんな『STAND BY ME ドラえもん』が、遂に今日、封切りを迎えました。
 
 
まだ映画をご覧になっていない方、
是非、3Dで観てください
きっと、暖かい気持ちで満たされると思います。
 
 
ネタバレを含まない内容にて以下お送りします。
 
 

◆STAND BY ME

制作を手がけた白組が
「質感にこだわって作った」
と各所のインタビューで話しているだけあり、その質感は細部に渡り隅々までこだわりを感じさせられました。
のび太のメガネ、未来の道具、ドラえもんの鈴、空き地の砂に至るまで一貫してこだわって表現されており、リアリティに富みつつも、あくまでドラえもんのイメージを壊さないようなテクスチャやモーションの使い方は、まさに職人の愛と呼べるでしょう。
 
そんなこだわりがあったからこそなのか、
映画が始まってから終わるまで、
両隣でカップルがイチャつくのもさほど気にすることなく
私はずっと笑顔でスクリーンを見つめていました。
 
手を伸ばせば、触れそうなくらいリアルで、
でもそれは確かにこれまで親しんできたドラえもんの姿に違いなく、
映画を観ている間、私はいつもドラえもんのび太の側で事の流れを見守っているような感覚がありました。
 
ドラえもんが、そこに居るーーー。
 
そんな感動に包まれながら、90分夢の中にいることができました。
 
 
 

ドラえもんは、子供の頃の友達

この作品は、
観る人は等しく子供の頃にはドラえもんと過ごした記憶を持っているーーー
それを前提に作られています。
さすが山崎監督、ノスタルジーをテーマに作らせると強い!
物語は、原作の7つのエピソードを繋げてつくられており、観客は子供時代にドラえもんを観た時の、楽しい記憶や経験を重ねて映画を観ることがてきます。
 
「すべての、子供経験者のみなさんへ」
 
そのキャッチコピーに相応しく、
子供時代をドラえもんを見て過ごした人のためにこそつくられた映画だと思いました。
 
 
 
 
 
ドラえもんが、そこに居る。
 
自分の記憶に、心に、いつもドラえもんは居る。
 
STAND BY ME …
ドラえもんはいつもその人の側にいる。
 
タイトルの真意を、見終わった後に悟りました。
 
 
ドラえもんを側で見てみたい、
ドラえもんのそばにいたい、
ぼくの、わたしのドラえもん
そんな時には、3Dで作品を観てください。
 
あなたも、きっとドラえもんに逢えるはずです。
そして、子供の頃のあなたにも出逢えるでしょう。
 
 
 
あの素晴らしい体験をしに、あと2回は観に行ってきます。( ´ ▽ ` )
 
 

 

ドラえもん 1 (藤子・F・不二雄大全集)

ドラえもん 1 (藤子・F・不二雄大全集)

 

 

【雑感想】『マレフィセント』-アンジーが全て

マーニーを観た後に、そのまま同じシネコン内で『マレフィセント』へはしごしました。

はしごはよくします。映画館によって座る場所もだいたい決まっていて、
最後列>通路に近い>>前に人がいない>出口が近い
という感じでいつも決めています。だいたい前日に予約するので希望通りの席を確保できますが、たまに最後列が埋まってる時は次の回に変更したり。
 
余談が長くなってしまった。
 
 
アメリカ!!!大味!!雑!!!でもアンジーかっけえ!!!
 
というのが観終わってからの感想。
エンターテイメントですからね、そんなもんでいいんです。
ディズニー映画はインスタント麺でいうとエースコックのワンタンメンなので、味は変わらなくていいんです求めてないんです。
でもね、
「買ったワンタンメンのワンタンがメンマだった」
くらい面食らいました。
めんだけに。
 
 
ディズニー映画史上最凶最悪とされたヴィランマレフィセントですが、
 
そんないい人になってしまったのね…
 
マレフィセントはもっと狡猾で、憎たらしく、妖艶で、私がこの世の悪です!っていうキャラであって、それが何故あそこまで悪になったのかというのを見てみたくて、みんな映画館に足を運んだはずなんですが…。(少なくとも私は)
 
 
とにもかくにも、考察をしても仕方のない映画なので、
単に面白かったところを雑に書いてみます。
 
 
 

アンジーーーー!アンジーかっけえ!!!!!

トゥームレイダーの時ばりのアクションとまでいきませんが、もうとにかくアンジー演じるマレフィセントがめっちゃ動きます。
マレフィセントのあのラスボス的な優雅さはどこへいったのでしょう
 
アクションだけではありません
演技もさすがというかさすが。
翼を失った時の悲痛な叫び声など、はっとしましたね。
 
 
 
 
腐ってもディズニーなので、映像的なクオリティはやっぱり高いです。
エンタメ性も高いので、悪くはないと思います。
 
でも、ディズニーヴィランとしてのマレフィセントに親しんできたファンにとっては、
裏切りに近い作品となってしまい、少し残念です。
 
 
 一つの作品としては、綺麗に仕上げてある作品なので、
ディズニーそんな好きちゃうで!
という人にはオススメしたい映画です。
 
 

【考察】『思い出のマーニー』 ―自己否定と自己愛―

賛否が分かれるジブリ映画と評判の

『思い出のマーニー』。

評価を見れば見るほど、どんなクソ映画なのかと期待して、観に行きました。

映画の日会社をサボ有給をとって)

 


「思い出のマーニー」劇場本予告映像 - YouTube

 

 

マーニーが登場するまでの、約40分。

 

ああ、ライ麦畑でつかまえて』の女性版だ…!

 

ノスタルジーと感動で震えておりました。

 

 

アンナという少女のリアリティ。

今回は、 そこに焦点を当てて考察してみたいと思います。

 

 

 

※以下、ネタバレを含む可能性があります。

※おおまかストーリーなどは割愛させていただきます。 

 

 

 

◆「ひとん家の臭いがする」

これに限らず、アンナのパンチある言葉は人目を引きます。

「メーメーうるさいヤギみたい」

「クマ…いや、トドかな」

「ふとっちょブタ!」

しかしながら、思春期である女の子の発言として最も共感できるのがこの「ひとん家の臭いがする」なのです。
そう言った後、アンナはすぐに窓を開けます。
昔その場所にいたはずの普通の子とその日常、そこでこれから自分が寝起きすること、これまでの生活……
色々な思いが渦巻くことで、彼女は自身と世界との間にすき間を感じ、それを不快に感じたのではないでしょうか。
少しでもその不快な「臭い」を取り去りたくて、彼女は窓を開けた。
 
これと似たような体験を、誰しもは1度は経験したことがあるのではないでしょうか。
幼いころ、
お盆休みに親戚の家で泊まった時、
友達の家へ招かれて遊びに行った時、
自分の日常と異なる生活の「臭い」あるいは「匂い」を感じる。
それに対して”不快”とは言わないまでも、"違和感"あるいは"疎外感"に近い感覚を抱いたことはありませんか。
 
この台詞は、
そんな「ひとん家の臭い」に紐付く感覚を、アンナを通して追体験させることにより、観客を作品へ入り込みやすくした大切な台詞であり、
観客にマーニーと出逢う準備をさせる重要なシーンであったと思います。
 
 

◆アンナの自己否定と自己愛

前半のアンナの一連の行動は、思春期に見られる自己否定、それに基づく他者への否定が顕著に現れており、アンナ自身は自分は他者と違う”輪の外の人間”だと思っています。しかしその考え自体はなんら特別なものではなく、ほとんどの人間が経てゆく思考なのです。
ただ、彼女が他者との間に距離を感じていることを考えると、アンナは周囲よりも早熟であったのでしょう。それは、複雑な家庭環境に由縁するかもしれませんが、アンナという人間自体は特別な人物ではなく、視聴者が等しく共感できる対象となっているには違いありません。
 
そして、マーニーと出逢ってからのアンナの行動もまた、思春期の女性で見られる同性愛的行動そのものなのです。
世間では同性愛っぽい描写とか百合だなんだと言われていますが
ほとんどの女性が思春期には同性愛的友情を育みます。
 
では、何故”ふとっちょブタ”ののぶ子ではダメで、マーニーに対してアンナは急速に心を開いていったのか。
諸説ありますが、ここでは心理的な側面から考察をしてみます。
 
思春期に親密になる友達の選び方として、自己投影と自己補完があります。
趣味嗜好が共通であったり、共に過ごす時間が多かったりすると、一気に心の距離が縮まることがあります。これは、自身に似ている人間を肯定することで、自身の存在を傷付けまいとしているためです。
また、逆に自分とは全く異なる性格や外見の人間と親しくなることがあります。これは、自身に足りない部分を他者に補わせることによって、自己をより完成された存在へ近づけようという意志の働きによります。
他者を肯定することで、自身のアイデンティティを肯定することに繋げる。
子どものままの心と、大人へと急に成長していく身体にバランスを失い、不安定なアイデンティティに揺れ、イラ立つ思春期に目立つ行動でもあります。
 
アンナは冒頭、そしてマーニーと出逢う直前に次のように言っています。
「私は私が嫌い」
これは、自分を好きになりたいという気持ちの裏返しでもあります。
 
そんな自己否定を続けるアンナの目の前に現れた少女マーニーは、ブロンドの長い髪、物怖じせず活発、明るくおしゃべり、裕福な家庭と、アンナとは対照的な存在です。
しかし、マーニーとアンナには共通点もありました。
アンナが自身について最もネガティブに捉えていたであろう部分、
青い瞳、
孤独、
彼女もまた ”輪の外の人間”であるとアンナは感じたのでしょう。
 
これらにより、アンナはマーニーに対して「自己投影」と「自己補完」の両方を行うことができました。 
アンナはマーニーと過ごす時間は自己を肯定し、補完することができる。
マーニーとといる時だけは、自分を愛することができる。
 
アンナにとって、マーニーは
自身の自己愛(エゴ)を肯定するためのかけがえのない存在だったからこそ、
いつも彼女を探していたのではないでしょうか。 
 

 

 
小難しく色々と書き連ねましたが、
この作品についての素直な感想は
 
大人になりかけていたあの頃
世界を否定し、自身を否定していた自分
苛立ち・不安・焦燥に満ち満ちていたあの頃の自分
そんな過去の自分に手を差し伸べ、寄り添う体験ができる素敵な作品です。
 

 

宮崎駿監督のような派手さはないけれど、

計算されたオーソドックスさが、高畑勲監督を彷彿とさせました。

 

今後の米林宏昌監督の作品が楽しみです。